神社に行く。

あさ

2008年11月23日 01:14

神社に行きました。
小春日和の気持ちの良い午後です。
おそらく地元の人しか知らないような場所にある神社で、清穏な空気に心が洗われます。

「こけこけこけこー」と言いながら、
足元の苔を見つつ参道を歩いて、ふと見上げると
楓が強風に舞って、空の半分が赤!
青い空が流水紋のようで、まさに錦繍。
くすんだ蝋色のお社の瓦とそこに落ちた紅葉に、凄艶でありながら寂寥感を感じさせる美がありました。

涙が出ましたよ。ワタクシ。






…言い訳させてもらおうか。

疲れてたの。
パソコンの画面みすぎで目がシバシバしてたの。
美しいものに飢えてたの。
人としゃべってなくて、「誰かに受け入れられる感」に飢えてたの(う。これはいけんな)
あの一瞬の美を見せてくれたその時間、場所、況や神のような存在に受け入れられたような気がしたの。


美しさというものを求めたとき、最終的に行き着く先はやはり「自然」のような気がします。

何かを蒐集し出すとします。
目が肥えてくるとどんどん良いものだけが欲しくなってくる。
「これが模倣したのは、あの品だ。となるとあの品が欲しい」
というのを10回ぐらい繰り返すと国宝に、
もう10回繰り返すと自然に行き着きます。
「この世にオリジナルの芸術品などない」という論がありますが、
すべての美は自然の模倣であり、自然から美を見出す感性から生まれるのだと思います。

おそらく年をとり生活に追われ、日々の激務をこなすだけの毎日を過ごせば、
美を見出す感性というのは、磨耗していくことでしょう。
実際10年前の自分より、感じ取る力は鈍くなっているような気がします。

ですがそれでいいのです。
年をとっても思春期のような心を持っていては、とてもじゃないけど生き辛い。
ああそうだね、過敏だよね、そういうときにはね、と
後進に助言が出来るのも、そのときが過ぎ去っているからできること。
やはり、人間というのはうまいこと出来ている。

いつか枯れてしまうその日まで、
色々を見て、何かを感じて涙したいと思います。







関連記事