2009年06月14日

宴のあと

あー。


よかったのかなー。


短慮だったんじゃないのかなー。


私、七尾氏のお優しさに甘えてる?



でも今回楔を打った制約のある文章を書いたことで、自分の癖がわかりました。
いぇーい。

↑あさちゃん、自分のことばっかりやな!



さて。ちと徘徊して、明日の朝市に備えるかの。
すり身買って、おじいさんの口に放り込むんだー。
で、おじいさんの耳に耳掻き突っ込むんだー。
えへへー。



私が食べ物ばっかりあちこち持ってく理由。
後に残る物をあげるより、素敵なことだから。
自分の用意したものが、好きな人たちの血となり肉となるの。
それはとても素敵なことでしょう?




七尾さん、
大分に取材で来ることがございましたら教えてくださいましね。
肥え太るまで口の中に放り込みますわ!

そして私に新作を読ませて。
良書であるほど、読んだ後の募る寂寥感は私が欲深い証拠です。









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Posted by あさ at 01:39│Comments(15)
この記事へのコメント
祭りの後は寂しい・・・はあ~っ・・・またこの一週間を嘗てTVの名画劇場の続編を待つがごとくの思いで待たねばならぬのか・・・。
しかしながら
>楔を打った制約のある文章を書いたことで、自分の癖がわかりました。
え~っ?・・・何処よ!?・・・オイラあさラバ失格・・・。
Posted by タロー at 2009年06月14日 02:35
タロー様

タロー様のブログでそのあさラバをばっさり大否定するの忘れてましたよ。
敵に癖や弱点を教えるわけないじゃありませんか。

>またこの一週間を嘗てTVの名画劇場の続編を待つがごとくの
え?
私今追い詰められました?一週間後とは限りませんよ?
野球の延長であとの、番組が延び延びになるのはままあることです。

ニヤり。
Posted by あさあさ at 2009年06月14日 02:56
七尾様祭もお開きとなりましたね。
ありがとうございました。
実在の人物、事件ということで、まず興味を惹かれるノンフィクションですが、取材して著される著者の力量・人間性でその魅力が増すのだと、改めて思いました。
これまでにご推薦頂いた多くの本の中で、まず「炭鉱太郎が来た道」を最新作からですが読もうと思います。


>私が食べ物ばっかりあちこち持ってく理由。
後に残る物をあげるより、素敵なことだから。

本当に、素敵です。私は贈物は消えものと決めているのですが、それは後に形が残ることがご迷惑ではと思う消極的理由からです。

>自分の用意したものが、好きな人たちの血となり肉となるの

そうですよね!ハッとしました。深い愛情を感じます。

そんなあさ様が肥え太らせようとなさるほどの七尾様、未読ですが今回の祭ですっかりファンになりました。
何かないですかね。取材対象になる人や事件。

祭のあとの寂しさはおじいさまとのひとときで、少し薄まっていらっしゃるとよいですね。

それから、骨折の件ですが、舌足らずでかえってご心配をおかけして申し訳ありません。不自由ですが元気にしております。江口洋介氏(同時期だったので勝手に骨折仲間と思っています)よりははるかに軽傷です。ありがとうございました。
Posted by かじ at 2009年06月14日 14:55
あさ様 そして あさ様のブログをお読みの皆様
  
 告白
 
 あさ様 
 あまりに真剣で情熱にあふれた、あささんというひとりの思考する読者の存在を知り、僕は今、とても深く悲しんでいます。
 おそらく僕は、あなたのような、あらゆる点で深い洞察に満ちた視線をお持ちのかたが、僕の書いたものを読んでくださる日がくると、もっと早く知っていれば、僕自身の仕事に自信が持てたのかもしれません。
 今となっては返す返すも残念でなりません。
 僕にはもはや、発表の場がありません。理由はすべて私自身の不徳の致すところです。僕の実力不足です。
 売れない書き手と作品は淘汰される。これは致し方のないことです。
 僕はとても悲しいです。悲しいですが、それを受け入れ、新しい人生を一所懸命に生きていかなければなりません。
 すべては僕の実力不足がもたらした結末です。

 あさ様のブログをお読みの皆様
 皆様と同様に、僕もまたひとりの読者としてあさ様のブログを知り、そしてファンになりました。
 唐突で不躾な書き込みをいたしましたにも関わらず、あたたかく見守っていただけましたこと、深く感謝申し上げます。
 あさ様のお人柄に誘われてのお仲間でいらっしゃると推察いたしましたが、とてもお互いを尊重し、敬慕しあった方々で、羨ましく思いました。
 僕は人生において仲間や友人と呼べる人間がほとんどおりませんでしたので、なにか自分自身があこがれた空気に多少なりとも触れられたような気がして、ささやかな幸福感さえ湧いてきました。
 皆様にも深く感謝申し上げます。

 再び、あさ様、そしてあさ様のブログをお読みの皆様へ

 はなはだ僭越ではございますが、このたび、僕なりに、ぜひなにか御礼をできないかと考えました。
 次のものは、僕の未発表の書き物です。おそらく今後も発表する機会はありません。
 拙いものではありますが、この場で皆様の御笑覧に供することで、僕なりの深い深い感謝の気持ちとして、ぜひお受け止めいただければと存じます。
 書き飛ばしたままで、なにも作業を加えておりませんので、はなはだ不格好なな酷いものではございますが、皆様の今宵の酒の肴のひとつとして咬み捨てていただければ、誠に光栄の限りです。
 ありがとうございました。                七尾和晃伏拝


 あささんとあささんの仲間の方々に贈る「未完の物語」  七尾和晃    
 
 川べりにホタルの黄色い光が明滅し始めると、それを合図のように、紅玉の陽はメコンの上流に急いで姿を隠す。かつて、その大河に闇が訪れるのを待ち、数多の船が密やかに東シナ海へと下った。「ボート・ピープル」と呼ばれた彼らのうち、1万人ほどが日本へと流れ着く。それから30年…。政府・自民党は今、新たな労働力確保策として、「移民受け入れ100万人」を計画し、「移民庁」の設置をも視野に入れる。だが、そこには「ボート・ピープル」と呼ばれた彼らの〝無国籍〟状態を解消する具体策は盛られていない。神奈川県や兵庫県の団地で身を寄せ合い、あるいは孤独ながらも、目立たなくとも確かな生活を送っている彼ら難民の苦悩を「日本」は長く顧慮してこなかった。そしてそれは、忘却という、海よりも果てない、永い漂流へと変わりつつある―。

「脱出」 メコンの村

 ベトナム人女性のヤン(仮名)は若い。結婚して家庭を持っているが、子供はまだいない。子供をつくらない理由かどうかはわからないが、こんなことを口にした。それは、日本に来て20年以上が過ぎたヤンの現在の思いとして、日本人として耳ににするのは辛かった。
 「まだ、日本で生きていくのに不安があります。わたしたちは無国籍だから。日本ではインドシナ難民を保護する法律がないので、無国籍である難民の子供も無国籍になってしまうんです。ベトナムでは戸籍そのものが消されてしまっているし、公的な証明書を出せと言われるときは、とても大変です」
「無国籍」という言葉は難民にとっては字面のニュアンス以上に、とりわけ深い意味を持つ。
「自分の国や政府を信じられなくて逃げてきたんです。誰に守られていけばいいのか…。誰が私や家族を守ってくれるのか。もう、ベトナムは国全体が大きな刑務所なんですよ。どこに行ってもダメだった。だから、国から逃げるしかなかった。なのに、着いた日本でもまた無国籍になってしまいました」

 乾季に入ったベトナムの田舎道は、日本では見ることのなくなった煤けた排気ガスと黄色い砂埃が治まりを知らずに襲ってくる。ホーチミンからすでに4時間。原付バイク(ホンダ)の後部座席で、クッションの悪いシートに押しつけられた尻が感覚を失っていく。
 ホンダはメコン川流域の都市、ミートーをかすめ、そこからさらに、10メートルは優にあろうかという巨木に囲まれた、うっそうとした森のなかのくねりに沿って小さな車体をきしませている。
 揺られながら、日本で出会ったあるベトナム人男性のこんな話も、不意に脳裏に浮かんだ。
「われわれが日本にきた最初のころ、1986年くらいまではまだ理解がありました。ベトナム難民なんですか、わかりました、やってあげましょうと、日本全国、どこの役所でもむしろ理解がありました。それはきっと、当時はまだ新聞やニュースでベトナム戦争の記憶が新しくて、そしてボートに乗った難民のことも知られていたからなんですね。でも、それ以降はニュースにもほとんど出なくなった。われわれ難民が日本にいることもだんだんと忘れられていって、役所で働く若い日本人たちも知らなくなってしまったんです。日本は『国際化』とよく言うでしょう。ずいぶんと国際化したのに、皮肉なことです」
 元南ベトナム政府の軍人だったその男は、くぼんだ眼窩の奥から、優しげな、しかしときに鋭い光を放つまなざしでそう言うのだった。
 1975年4月30日、「サイゴン陥落」によって、25年にわたった南北両政府によるベトナム戦争は終結を迎える。だが、北政府は、かつての南政府の関係者や元軍人に対する弾圧を続けた。耐えかねた人々は、小さな木造船に乗り込み、木葉のごとくに海へ出た。
 そして彼らは「ボート・ピープル」となったのだ。
 向かっているのは、そんなインドシナ難民のひとりが脱出の拠点とした、森のなかの、地図にはない場所である。
 延々続く木々の空隙を縫って、ホンダは進む。緑一色の森は距離感を麻痺させ、あとどれくらい走り続けるのかさえ計算もつかない。ただ、ハンドルを握るフォンは少し前まで軍隊にいたというだけあって、オンロード用のホンダで、舗装もない悪路を器用に走り抜けていく。私はこの男の背に、ただしっかとしがみついていた。時間は十二分にある。そこには、夜までにつけばいい。難民たちの出発は必ず「夜」だった。

「脱出するのは月のない新月の晩です。月の明かりがあると船が見つかってしまうから。だから必ず、月のない真っ暗な夜を選んで脱出するんです。ボートの長さは縦が12メートルくらい。それを、二重底、三重底に改造して、66人が乗り込みました。そして、メコンの潮と時間を計りながら、脱出します。メコン川の脱出が一番危険だと言われていました。検問で見つかってしまうと、殺されてしまうからです」
 そう教えたのが、5歳のときにベトナムからボートに乗り脱出してきたヤンだった。すでに結婚している彼女は現在、ベトナム語の通訳の仕事をしている。
 その脱出ボートを計画したのは、軍人だったヤンの父親だった。
 まだ若くして日本に来たからであろう。神奈川県下のある駅前でヤンと待ち合わせても、群衆のなかから現れたその姿に、異国のものは感じさせない。近寄って初めて、そのくっきりした二重まぶたの美しさと大きな笑顔が、〝日本人離れ〟していることに気付かせる。
 1975年のサイゴン陥落直後に始まった難民流出によって、日本にはおよそ1万1千人のインドシナ難民が到着した。そのうち、ベトナム人は8千人ほど。カンボジアとラオスの人々がそれぞれ1千3百人ずつを占める。
 1979年、日本政府は国際世論に呼応するかたちで、こうした難民の定住受け入れを決め、その年、兵庫県姫路市と神奈川県大和市に定住促進センターを設置し、日本語教育や就職あっ旋など援助に乗り出した。さらに、急増する難民数に対応するため、82年には長崎県大村市にレセプションセンターを、83年には東京都品川区の旧国鉄の線路沿いに国際救援センター(06年に閉所)を相次いで開設する。
 日本に到着する難民たちのほとんどはまず、この大村のレセプションセンターで健康診断や基本的な審査を受け、そして長期的な滞在設備が整った国際救援センターへと移る。そこで日本社会で生活するための基礎的な知識を身につけた後、姫路市や大和市といった、援助態勢の整った地域へと入っていった。
 現在、大和市のベトナム人の数は5百3人で、同市人口6千5百53人のうち7・6%を占める(2008年10月1日現在)。ただ、なかには日本に帰化する人々もいる。そのため、インドシナ難民の過去を持つ人数を特定するのは、大和市に限らず、かつて同様に定住センターを抱えた姫路市でも困難になりつつある。最近では職を求め、かつて震災に見舞われた神戸市長田区の製靴工場の現場へと移住していく流れも活発だという。
 いずれにせよ、そうして日本に定住したひとりがヤンだった。
 ヤンの乗った船は、台風にも遭わず、海賊にもつかまらず、二十日ほど海上を漂流した末に、オランダの船に救出された。
 ひしめき合う船底では、死者も出る。
「船底で両親が死んで、仕方ないので死体は海に流して…。でも、その子どもは頑張って日本で大学院まで終えて、頑張っています」
 今は同胞のベトナム人を支援する立場にもあるヤンだが、ときに複雑な心境をのぞかせる。
「生き延びるためにベトナムを出たのですが、そのときにはとにかく無事に脱出してどこかに辿りつくことを願うだけで、日本に行きたいとか、そんな具体的な場所までは頭になかったんです」
 ヤンに限らず、ベトナム難民たちのもとを訪れると、異口同音に同じことを言った。
「むしろ、南の軍人のなかには、やっぱりアメリカに行きたいと希望する人のほうが多かったです。アメリカ軍との関係で、英語ができる人も多かったから」
 彼らの〝心の漂流〟は、望んだ米国の地に辿り着けなかったことから来るものだけではない。むしろ、縁あって定住した日本での、難民に対する〝無制度〟が、常に大きな不安を呼び起こすのだ。
 ヤンはこうも告げた。
「わたしが6年前に結婚するときも大変でした。結局、日本の市役所が婚姻届を受理してくれるまでに6カ月もかかりました。ベトナム大使館に行って、独身証明書を取ってこいというのですが、難民であるのに、大使館に行けるわけがありません。独身証明書も出せないんです。結局、法務局に出向いて、夫と私がそれぞれ別の部屋で取り調べみたいに質問されて、そして独身であることを誓うという陳述書を書いて、それでやっと役所は受理してくれました」
〝亡命〟してきた彼らに、本国の大使館に行けとは、不作法を超えて不見識にもほどがあろう。だが、役所側の担当者にも苦悩はある。「ケースバイケースで対応するしかないんです。彼らはあくまでも外国人登録法上では、日本国内ではベトナム国籍としますが、ベトナムの領事館などへ行けば、彼らはベトナム人ではありませんから…。無国籍の状態での不便はよくわかるんです。ただ、われわれにもどうしようもなくて…」
 インドシナ難民を受け入れ始めてからすでに20年以上が経つ。冒頭で紹介したベトナム人が話すように、そこには、「国際化」の虚実が垣間見えるような気がした。

 封印された「赤バラ作戦」
 
 関西在住のベトナム人のひとりが、こんなことを教えた。
「ファー・ホン・ローと言います。日本語では、赤いバラと訳します。赤いバラ作戦というのが、ベトナム共産党の秘密作戦としてありました。わたくしが知っているのは、79年にそれが始まったということです。それはおそらく80年代の半ばくらいまで続いたでしょうか」
「赤バラ作戦」は次のようなものだった。
「70年代後半から、多くのベトナム難民が流出して、ベトナム共産党は非常に頭を悩ましたわけです。難民がそれぞれの国に行って内情を明かすので、ベトナムの評判も悪い。その頃、ベトナム北部の刑務所は、収監された犯罪者でいっぱいで、どこの刑務所も満員の状態でした。そこで、彼ら犯罪者を、ベトナム難民を装って脱出させ、そのなかには共産党の工作員も紛れこませたわけです」
 この赤バラ作戦について、日本語のベトナム史について書かれたものには一切出てこないが、と告げると、「それは当然です。共産党の秘密作戦ですから」と言うのだった。
「犯罪者を難民として流出させることで、ベトナム難民の世界での評判を落とさせようという作戦でした。中に紛れている工作員は、私たちベトナム人のコミュニティに入ってきて、いろいろな噂を流したり、日本での私たちの動向を監視して報告したりと、さまざまな工作をするのです」
 
 脱出してきた元軍人の多くは、終戦後のベトナムで、北政府による再教育キャンプに送られたと証言する。そのキャンプでの「再教育」とは名ばかりで、便器の上に座らされたままで、施錠され、監禁される。そこを〝解放〟されても、2時間以内に遠くまで行かないと、再び捕えられ、殺されてしまう。それはまるで、北政府による〝人間狩り〟のようであったという。
 その再教育キャンプから無事に脱走を果たしたある難民はこう言って首を振った。
「今でも同じです。ベトナムは今も社会主義だということを忘れてはいけない。向こうの家族にお金を送るときも、タバコの箱の底に二重にして、写真を入れたり誤魔化して、そうして一回目は届きます。でも、二回目は届きません。手紙もぜんぶ開けられて、検閲されているんです。自由の基本が守られない国をどのように信頼できるのですか」
 日本で生活していながら、拭い切れない現実の怖さを感じるからだろう、強く念を押されたこともあった。
「同じベトナム人でも、相手が本当の難民なのかどうか、なかなかすぐには信用できない。本当に心を開くことはできない。なかには、まだベトナムに家族を残している人もいる。もし、ベトナムでその家族が大変なことになったらまずいです。日本での〝北と南の戦い〟はまだ続いているんです。南の人間は北の人間を警戒しますから。結婚や交流もほとんどありません。北の監視には、日本でも脅えているのです。だから、必ず匿名にしてください。写真も絶対にやめてください」
 それは、「ドイモイ(開放)政策」のもと、明るいリゾート地としてのイメージが定着する昨今のベトナムしか知らない日本人にとっては、耳を疑う話に違いなかった。
 ベトナムは今、未曾有の〝好景気〟を迎えている。ハノイ駐在のある商社マンは呆れてみせた。
「それこそひと頃のシリコンバレーですよ。バブルさながらです。ハノイはとりわけすごいです。地元の役人までがロールスロイスやポルシェの新車を乗り回して、ヨーロッパのスポーツカーが溢れています。その一方で、庶民の暮らしは相変わらずで、農村部だけでなく、都市部でも日本の戦後と変わらないような暮らしが大半です。もちろん、政府の役人の給料でそんな贅沢な暮らしができるわけがないんですが、かつてのロシアのノーメンクラツーラ(特権階級)とまったく同じ構造です。賄賂と収賄が横行して、アングラでの稼ぎがとてつもない。ドイモイ政策で、欧米の投資を呼び込むことに成功したことで、こうした袖の下の権益がすさまじく膨らんでいるんです。社会格差なんて日本の比じゃないですよ」
 そんな祖国の微妙な繁栄は、インターネット時代ゆえ、日本在住の難民たちの耳にも容易に届く。そしてそれが、癒えない気持ちを、ときに逆なでる。
「そもそも、ベトナムは54年のジュネーブ協定によって南北に分断されました。その時、私を含めて、ハノイなど北に住む大量の人間が南に逃げたんです。その数は百万人とも推定されています。なかには、ラオスとの国境を越えて、タイやカンボジアまで逃げた人もいた。大量のベトナム人が脱出したのはその時が初めてです。そして二度目が75年です。我々は人生において二度、難民になったのです」
 
「日本社会に貢献しないと」

 ところで、やはり怯えた心情を吐露するのは、とりわけ脱出するときにすでに成人に達していた「難民1世」に多い。
 もちろん、ヤンのようにごく幼い頃や、日本で生まれた「難民2世」を経て、現在はその2世のなかにも子を持つ者のなかにも不安感は根強い。だが、止まることのない時間は、世代をつなぎ、日本でのインドシナ難民は、すでに「3世」の時代に入っている。
 日本に定住するそうした難民たちの間には、「世代間意識」の問題も生まれていると、ある外務省関係者は教えた。
「難民の第一世代の人々はベトナム人としてのプライドを捨てずに、それは内に強く秘めて抑え込んで、うまく日本社会に溶け込もうと耐えている人が多いんです。しかし、幼くして日本に来た、あるいは日本で生まれた第二世代は、自分は完全に日本人であるという意識が自然に生まれています。第一世代にとっては、そんな第二世代の子らに、祖国ベトナムの文化をどう伝えていくかという悩みがあります。また、第一世代の高齢化も進行しています。彼らの多くは肉体労働で生活を支えてきたので、就労困難になるのも早いのです。戦争のトラウマもあり、やはりケアが必要になります。第一世代はかなり疲れ始めています」
 その「第一世代」は次のようにも言う。
「日本社会になんとか貢献しないと、日本社会の荷物になってしまうんですよ。ただ、それがなかなかできない。それで、結局落ち込んで、鬱になったり失調症になってしまう。単身者はとりわけストレスが多いです。そして、結果的に生活保護を受けるようになってしまう。多いんです、本当に。本人たちは日本社会に溶け込むようにすごい努力します。でも、できない。やっぱり、言葉の問題も大きい。もっと日本語教育を工夫してくれたりしたら、ぜんぜん違ってくるでしょう」
「日本社会に貢献しないと…」。そんな覚悟を強いる日本社会とは、なんと残酷なのかと、私はそれを聞いたとき、天をも仰ぎたい思いだった。
 第一世代の難民に尋ねれば、彼らはきまって次のように嘆いた。
「身分は大変に不安定。日本では難民と呼ばれながら、何の証明書もないから。難民事業本部が発行したものだけ。生活上、これはかなりのストレス。2世も3世もそう。家族をベトナムから呼びよせた場合も、彼らにあるのは難民証明ではなく、定住証明だけ。日本は移民の労働者を受け入れたり、認定難民を受け入れると言っているけれど、われわれインドシナ難民のような扱いになるんじゃないかと、大変心配しています。インドシナ難民は公的な証明書がなにもないから」
 振り返れば、私がインドシナ難民を取材するきっかけは、7年前に遡った。
2002年7月12日、私は東京地裁で、日本橋・常盤橋上でのホームレス殺人事件の判決公判を取材していた。懲役20年を言い渡されたブ・バン・ホアは、裁判長をまっすぐ見つめ、ベトナム語でこう答えた。
「控訴しません」。その、諦念とも悲壮感とも異なった、もはやすべてを運命として受け入れようとするかのような、ある種の覚悟さえ漂う語調が、私の耳に奇妙に憑りついた。
 ホアは1989年にベトナムを脱出し、日本にやってきた「ボート・ピープル」のひとりだった。日本定住後は土木作業員をしながら窃盗などを繰り返し、すでにいくつかの前科を持っていた。そして出所後にホームレスとなって常盤橋に住み着く。
 ある日、日本人ホームレスの侮辱に耐えかね、文化包丁で心臓を刺したのだった。ホームレスとなったホアは、日本人仲間から残飯集めやタバコの調達を命じられながら生活し、あるいはダフ屋のためのチケット並びなどをやって糊口をしのいでいた。
 ホアが住み着いた常盤橋の下には神田川が流れている。その、排水によるものだけとは思えない、日本社会の矛盾をまるごと呑みこんだような色なき色の濁りを眺めながら、ホアはやはり自身の辿った人生を重ねることがあったのだろうか。川面から顔を上げれば、すぐ真横には、壮麗な日本銀行の旧館が建っていた。

 私は、ホアも浮かんだであろう、メコンの真ん中に浮かぶ小さなボートの上にいた。河口付近のそこは、岸から岸まで優に3キロ近くはあり、もはや海そのものだった。黄色く濁った水は、夕闇の訪れとともに、墨汁のような漆黒に変わりつつあった。
 借り上げたボートの持ち主が、片言の英語で執拗に尋ねてくる。
「もうすぐ本当に真っ暗になる。真っ暗闇の川を走るなんて本気なのか。自分の知っているカラオケにいかないか」
カラオケは、外国人客相手の売春宿だ。私は言った。「女性を求めてベトナムに来たんじゃない。闇を見に来たんだ。メコンの闇夜を見るためにきたんだから。真っ暗闇のメコンを走ってくれ」。そう言いながら、胸のポケットから、1ドル紙幣数枚をチップとして渡した。
 そして…闇が訪れた。川岸がどこかさえもわからない。地平と水平が、空と水が、河と闇がひとつになっている。月明かりのない新月の夜、闇にまぎれてボートに乗り込んだ何十万人ものベトナム人たちを見守っていたのは、ホタルの小さな光だけだった。闇夜に目が慣れ、そのホタルの光を力強く感じ始めたとき、漂流の行く末にもきっと、絶望を超えたものがあるはずだと、そんな思いがふと湧いた。


 
 
 
 
  
 
 
Posted by 七尾和晃 at 2009年06月14日 18:58
七尾和晃さま

あさちゃんのコメント前に失礼いたします。
(わたくしアクエリアスとか申します。アセ;)

貴重な作品をありがとうございます。早速プリントアウトしています。

わたくしはパっぱらパーなので文学は読むことがほとんどなく、読解できるかわかりませんが、ブログでこのようなことが起こることに大変感動しております!

しかし、このような貴重な作品をこちらにご披露してくださって大丈夫なのですか?
と思うと同時に貴方様とあさちゃんの運命的なご縁を感じずにはいられません。

もはや「愛」を超えたお二人の「宿命」を感じてしまうくらいです。
ものすごく!!!
ああ、わたくしがお二人を小説にしたいくらいです。

いまからゆっくりと 『あささんとあささんの仲間の方々に贈る「未完の物語」  七尾和晃著 』 を読ませていただきます。

(お礼がドロドロのギャグ節になる前に失礼いたします<(__)>。)





あさちゃん、お先にごめんよ~~~。(人)
Posted by アクエリアス at 2009年06月15日 12:50
七尾様

「未完の物語」 読了いたしました。

リゾート地として、またほんの1、2年前BRICsの後を追う国として
日本でも国債を買う人もいて、華やかなイメージもあるベトナム。
その暗部であるところの「ボートピープル」という言葉を忘れていた自分に驚いています。
>そしてそれは、忘却という、海よりも果てない、永い漂流へと変わりつつある―。
私もまたその流れに身を任せておりました。
正しく七尾様の眼差しが向かうべくして向かったテーマですね。


題名もなく、未完であることがなにより寂しく思いますが、
この場に残してくださったことだけを有難く思うべきですね。

手に入らないものを求めるようなことは、あまりしないようにして参りましたのに
七尾様の才に欲が頭を擡げたのでしょう。
与えられたものだけを感謝しつつ、七尾様のこれからの穏やかな生活をただただお祈りいたします。



なにかなー、この虚無感。
うわ、これがほんとの「虚無への供物」か!!
何うまいこと言ってんだよ私・・・。めそめそ。
Posted by あさ at 2009年06月16日 19:54
かじ様

まずは骨折が軽傷と知りほっとしております。
(いや、でもおおごとですよね)

ちょっと頭がふらふらしています。
めそめそ。
Posted by あさ at 2009年06月16日 20:11
マダムあく様

もうね、なんかね。
こうもはっきりと絶筆宣言されるとね・・・。
マダム、あたいを慰めて!!
Posted by あさ at 2009年06月16日 20:13
七尾和晃さま

あさ様のブログ読者でかじと申します。
私ども読者にまでお言葉を頂きありがとうございます。
あさ様へのコメント、そして「未完の物語」を拝読させて頂く僥倖に恵まれたことを深く感謝しております。

「未完の物語」繰り返し拝読いたしております。
七尾様やあさ様のような若い世代でないわたくしは、「ベトナム戦争」それに続く「ボートピープル」はリアルタイムで報道を観ておりました。
25年前に犬養道子著「人間の大地」で衝撃を受けたものでした。
ですのに、すっかり忘れておりました。
難民とは国籍を持たない、いや持つことができない人なのですよね。
パスポートは海外旅行の為くらいにしか認識しない、島国でありraceとnationalityが同一の人が多い日本人は「国籍」の重要性を意識することは少ないのではないでしょうか。
定住した彼らが、今もなお無国籍であることに言葉を失っています。その意味することにも。
彼らの現状、「赤バラ作戦」の怖さ、知ることができないことでした。
知っても何もできないことに、また忘れてしまうだろうことにも、ただ項垂れています。
ですが、まず「知ること」それが大切なのだと思います。
名もなき人たちに寄り添うような取材をなさったのではないでしょうか。
心に残る作品をありがとうございました。失礼がありましたらご寛恕くださいませ。


さて、失意のあさ様をどうお慰めすればよいのか。
もらい泣きしております。
どういたしましょうか。
Posted by かじ at 2009年06月16日 23:29
勝手ながら、今回の事で私も記事を書かせていただきました。

「未完の物語」、読み入ってしまいました。しかも携帯で。

様々な事が重ならない限り、私は七尾和晃という人物も、その作品すらも知らないままに過ごしていたでしょう。

ただただ、お二人を繋いだ「糸」に感謝しております。
Posted by イヌヒイヌヒ at 2009年06月17日 07:25
かじ様

お優しいかじ様に無闇矢鱈にご心配をかけ放題のあさです。
方々で甘えとるなぁ…。
Posted by あさあさ at 2009年06月28日 00:23
イヌヒ様

携帯でお読みになるとは根性が座ってらっしゃる。
CMで一日平均20回携帯をいじるそうですが、
私5回がいいとこですよ。アラーム含めて。
Posted by あさあさ at 2009年06月28日 00:26
突然でございますが、お邪魔いたします。
私はチャンネル桜掲示板にて、
金糸というハンドルネームで拉致問題解決を願い、細々と書き込みを続けております。
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=3031&forum=1&start=930
このたびかような記事を見つけまして、
http://www.chosunonline.com/news/20090821000028
思わず、脱北者とボートピープルの姿がダブり、犬養道子さんのご本関連を検索していて、こちらを見つけました。勝手ではございますが、あなたさまのブログURLだけご紹介させていただいてはいけませんでしょうか。私の投稿文への一日のクリック数は決して多くはございませんが、七尾和晃さまのコメントを読んでほしいと思うのです。
ただ、『あささんとあささんの仲間の方々に贈る「未完の物語」  七尾和晃』とのこと。ご迷惑のようでしたら、無理は申せないと承知しております。


今日から、こちらさまを私のお気に入りに登録させていただきます。

失礼いたしました。
Posted by 金糸 at 2009年08月21日 13:56
金糸様

コメントありがとうございます。
教えてくださった掲示板と記事を拝読いたしました。
ありがとございます。

以前伏せて書いたNHKの「JAPANデビュー」への違和感は私以外の方も
感じていたのを知り、少し安心しました。
国営放送ですのに、随分不思議な視点で提供された番組でした。
ですが良い番組も沢山ございますので、
きっと何か悪いものをこじらせたのだろうと考え、NHKの良心をもう少し信じようと思います。

七尾様の「未完の物語」は本来であれば、このような些事ばかりの拙いブログで発表されるのではなく、
金糸様をはじめ、多くの心ある方に読まれるべきテキストだと思っております。
どうぞお気遣いなくご紹介くださいませ。

犬養道子さんというと『心の座標軸』と『あなたに今出来ること』を読みました。
いずれも良書ですね。


これからもよろしくお願いいたします。
Posted by あさ at 2009年08月23日 20:10
早々に御返事をいただきながら、多忙とはいえ、御礼の言葉も書き込めずにおりました。
お許しくださいませ。

あちらの板にご紹介させていただきます。

こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。

ありがとうございました。
Posted by 金糸 at 2009年09月01日 20:49
 
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