2008年11月23日
夜中の遊び
ここ数日、夜中にチャーハンを作って遊んでいました。
もうね、ぱらっぱら。
ぱらっぱらすぎて、さながら砂ですよ。
家で砂食べて、会社で砂を食むような思いをするんですよ。
砂かけばばぁもかくありなんと言ったところですよ。
毒蝮三太夫に会ったとき
「おいおいキタネェばばぁだな」なんて言わせないよう、今から頑張っているのですよ。
違う話になってしまいました。
具はねぎ、生姜、ニンニク、玉子のみ。
水分を含む食材は極力いれない。
米のまわりを玉子と油でコーティングするイメージで炒めます。
お野菜入れて健康に留意なんかしてはならんのです。
だって遊びだもん。いいんだもん。
これに夕べは頂き物の蟹缶の蟹で作ったあんをかけてみたりしましたが、
やっぱり何もかけないシンプルなのが一番だわ。
で、このぱらっぱらチャーハンを寝る直前に食べるのですよ。
まさに危険を孕んだ大人の夜遊び。デンジャーなアバンチュールですよ。
もうね、ぱらっぱら。
ぱらっぱらすぎて、さながら砂ですよ。
家で砂食べて、会社で砂を食むような思いをするんですよ。
砂かけばばぁもかくありなんと言ったところですよ。
毒蝮三太夫に会ったとき
「おいおいキタネェばばぁだな」なんて言わせないよう、今から頑張っているのですよ。
違う話になってしまいました。
具はねぎ、生姜、ニンニク、玉子のみ。
水分を含む食材は極力いれない。
米のまわりを玉子と油でコーティングするイメージで炒めます。
お野菜入れて健康に留意なんかしてはならんのです。
だって遊びだもん。いいんだもん。
これに夕べは頂き物の蟹缶の蟹で作ったあんをかけてみたりしましたが、
やっぱり何もかけないシンプルなのが一番だわ。
で、このぱらっぱらチャーハンを寝る直前に食べるのですよ。
まさに危険を孕んだ大人の夜遊び。デンジャーなアバンチュールですよ。
2008年11月23日
藤田先生。
NHKの「やさいの時間」が好きですという話はここにも書きましたが、
もう、困るわ。この気持ち。
先週はエンドウの植え付けの仕方を教えてくれた藤田先生ですが、
エンドウということで、メンデルの格好をして畑に出てくるんですもの。
もうTVに向かって、
「好きだ!大好きだ!!藤田先生!!」
って叫んでしまいましたよ。気さく過ぎるにもほどがある。
しかもメンデルというより、カトちゃんのちょび髭親父のようなまるぶちメガネ。
毎回コスプレして畑に出てきますけど、
いっつも100均で誂えたような安っぽさ。
畑の土地代がバカにならないのかしら。
今週は玉ねぎの植え付けを教えたくださいました。
祖母の玉ねぎ仕事も終わったようですし、
とりたててその知識が役立つことはなさそうですが、
こんなに好きになってしまったのです、一言一句真面目に聞きますよ。
ああ、困るわ。
これが恋というものなのかしら。
これを知人に話したら、
「そうだよね、人間顔じゃないしね!」
と返されました。
失礼な。
藤田先生に謝れ。
あとこの知人は茂木健一郎でも同じことを言ってました。
失礼な。
でも私もちょっとこの人は、
「セルフイメージと実像の乖離が激しそうな人だなぁ」と思ってしまいます。
失礼ですね。ごめん。
もう、困るわ。この気持ち。
先週はエンドウの植え付けの仕方を教えてくれた藤田先生ですが、
エンドウということで、メンデルの格好をして畑に出てくるんですもの。
もうTVに向かって、
「好きだ!大好きだ!!藤田先生!!」
って叫んでしまいましたよ。気さく過ぎるにもほどがある。
しかもメンデルというより、カトちゃんのちょび髭親父のようなまるぶちメガネ。
毎回コスプレして畑に出てきますけど、
いっつも100均で誂えたような安っぽさ。
畑の土地代がバカにならないのかしら。
今週は玉ねぎの植え付けを教えたくださいました。
祖母の玉ねぎ仕事も終わったようですし、
とりたててその知識が役立つことはなさそうですが、
こんなに好きになってしまったのです、一言一句真面目に聞きますよ。
ああ、困るわ。
これが恋というものなのかしら。
これを知人に話したら、
「そうだよね、人間顔じゃないしね!」
と返されました。
失礼な。
藤田先生に謝れ。
あとこの知人は茂木健一郎でも同じことを言ってました。
失礼な。
でも私もちょっとこの人は、
「セルフイメージと実像の乖離が激しそうな人だなぁ」と思ってしまいます。
失礼ですね。ごめん。
2008年11月23日
神社に行く。
神社に行きました。
小春日和の気持ちの良い午後です。
おそらく地元の人しか知らないような場所にある神社で、清穏な空気に心が洗われます。
「こけこけこけこー」と言いながら、
足元の苔を見つつ参道を歩いて、ふと見上げると
楓が強風に舞って、空の半分が赤!
青い空が流水紋のようで、まさに錦繍。
くすんだ蝋色のお社の瓦とそこに落ちた紅葉に、凄艶でありながら寂寥感を感じさせる美がありました。
涙が出ましたよ。ワタクシ。
…言い訳させてもらおうか。
疲れてたの。
パソコンの画面みすぎで目がシバシバしてたの。
美しいものに飢えてたの。
人としゃべってなくて、「誰かに受け入れられる感」に飢えてたの(う。これはいけんな)
あの一瞬の美を見せてくれたその時間、場所、況や神のような存在に受け入れられたような気がしたの。
美しさというものを求めたとき、最終的に行き着く先はやはり「自然」のような気がします。
何かを蒐集し出すとします。
目が肥えてくるとどんどん良いものだけが欲しくなってくる。
「これが模倣したのは、あの品だ。となるとあの品が欲しい」
というのを10回ぐらい繰り返すと国宝に、
もう10回繰り返すと自然に行き着きます。
「この世にオリジナルの芸術品などない」という論がありますが、
すべての美は自然の模倣であり、自然から美を見出す感性から生まれるのだと思います。
おそらく年をとり生活に追われ、日々の激務をこなすだけの毎日を過ごせば、
美を見出す感性というのは、磨耗していくことでしょう。
実際10年前の自分より、感じ取る力は鈍くなっているような気がします。
ですがそれでいいのです。
年をとっても思春期のような心を持っていては、とてもじゃないけど生き辛い。
ああそうだね、過敏だよね、そういうときにはね、と
後進に助言が出来るのも、そのときが過ぎ去っているからできること。
やはり、人間というのはうまいこと出来ている。
いつか枯れてしまうその日まで、
色々を見て、何かを感じて涙したいと思います。
小春日和の気持ちの良い午後です。
おそらく地元の人しか知らないような場所にある神社で、清穏な空気に心が洗われます。
「こけこけこけこー」と言いながら、
足元の苔を見つつ参道を歩いて、ふと見上げると
楓が強風に舞って、空の半分が赤!
青い空が流水紋のようで、まさに錦繍。
くすんだ蝋色のお社の瓦とそこに落ちた紅葉に、凄艶でありながら寂寥感を感じさせる美がありました。
涙が出ましたよ。ワタクシ。
…言い訳させてもらおうか。
疲れてたの。
パソコンの画面みすぎで目がシバシバしてたの。
美しいものに飢えてたの。
人としゃべってなくて、「誰かに受け入れられる感」に飢えてたの(う。これはいけんな)
あの一瞬の美を見せてくれたその時間、場所、況や神のような存在に受け入れられたような気がしたの。
美しさというものを求めたとき、最終的に行き着く先はやはり「自然」のような気がします。
何かを蒐集し出すとします。
目が肥えてくるとどんどん良いものだけが欲しくなってくる。
「これが模倣したのは、あの品だ。となるとあの品が欲しい」
というのを10回ぐらい繰り返すと国宝に、
もう10回繰り返すと自然に行き着きます。
「この世にオリジナルの芸術品などない」という論がありますが、
すべての美は自然の模倣であり、自然から美を見出す感性から生まれるのだと思います。
おそらく年をとり生活に追われ、日々の激務をこなすだけの毎日を過ごせば、
美を見出す感性というのは、磨耗していくことでしょう。
実際10年前の自分より、感じ取る力は鈍くなっているような気がします。
ですがそれでいいのです。
年をとっても思春期のような心を持っていては、とてもじゃないけど生き辛い。
ああそうだね、過敏だよね、そういうときにはね、と
後進に助言が出来るのも、そのときが過ぎ去っているからできること。
やはり、人間というのはうまいこと出来ている。
いつか枯れてしまうその日まで、
色々を見て、何かを感じて涙したいと思います。
2008年11月23日
墓掃除
墓掃除に行きました。
「墓参り」でなく「墓掃除」。
好きなのです。墓掃除。
石という磨けば光る素材、野晒し故の適度な汚れ、油気がないのでケミカルな洗剤なども一切不要。
いいわー、墓掃除。
さらに家のは父方母方、同じ墓地にあり、山肌ゆえに景色も明媚で適度な運動にもなります。
高い所から見下ろす町をみて、
「人が蟻のようだ」
と嘯くこともできます。
先祖に対する畏敬の念が足りてないので、本当に掃除「だけ」をして帰ることもままあったのですが、
今年になって、母方の墓に血のまったく繋がらない人の墓石があると知ったので
「他人様なら手の一つも合わせねば」
というわけで、最近はちょっと拝んでから帰ります。
メインの墓石の後ろにいっぱい墓石があって、誰が誰だか分からなかったんですよね。
今でも分からないのがいくつかあります。
どちら様?
上記の「血の繋がらない人の墓石」という、少し変わった書き方をしたのは理由がありまして、
骨などはなく、本当に墓石だけなのです。
遠い北の大陸で戦禍に巻き込まれなくなった母子。骨など拾えようはずもありません。
望郷の念だけを残して凍てつく大地に眠る二人。
あ、いかん。
書いてるだけでちょっと涙が。
この墓のことを知る前から、
「1945年」 「ロシア軍南下」 「ヤルタ会議」 「瀬島龍造」(これは灰色か)などの単語を聞くと
人より多く頭の血管が切れていたのですが、
なんとなく、こういうことなのかななどと、少し縁のようなものを感じました。
でもね!きっとね!生まれ変わってるからね!
前世でエライ目にあったから、きっと今世はすっごい幸せになってるんですよね!
千の風になってビュービュー言ってる場合じゃないですからね!!
親子そろって、川井郁子やすわない晶子(漢字がでない)みたいな美人で才能もあって、
岩崎弥太郎邸みたいなとこに住んで、ランボルギーニ乗って、毎日ロオジェやら久兵衛やらに行ってるんですよね!!
(これが私のお金持ちに対する想像力の限界)
ん?ということはやっぱり墓を拝まくてもいいのか?
拝んでやれよ。
南無三!!
「墓参り」でなく「墓掃除」。
好きなのです。墓掃除。
石という磨けば光る素材、野晒し故の適度な汚れ、油気がないのでケミカルな洗剤なども一切不要。
いいわー、墓掃除。
さらに家のは父方母方、同じ墓地にあり、山肌ゆえに景色も明媚で適度な運動にもなります。
高い所から見下ろす町をみて、
「人が蟻のようだ」
と嘯くこともできます。
先祖に対する畏敬の念が足りてないので、本当に掃除「だけ」をして帰ることもままあったのですが、
今年になって、母方の墓に血のまったく繋がらない人の墓石があると知ったので
「他人様なら手の一つも合わせねば」
というわけで、最近はちょっと拝んでから帰ります。
メインの墓石の後ろにいっぱい墓石があって、誰が誰だか分からなかったんですよね。
今でも分からないのがいくつかあります。
どちら様?
上記の「血の繋がらない人の墓石」という、少し変わった書き方をしたのは理由がありまして、
骨などはなく、本当に墓石だけなのです。
遠い北の大陸で戦禍に巻き込まれなくなった母子。骨など拾えようはずもありません。
望郷の念だけを残して凍てつく大地に眠る二人。
あ、いかん。
書いてるだけでちょっと涙が。
この墓のことを知る前から、
「1945年」 「ロシア軍南下」 「ヤルタ会議」 「瀬島龍造」(これは灰色か)などの単語を聞くと
人より多く頭の血管が切れていたのですが、
なんとなく、こういうことなのかななどと、少し縁のようなものを感じました。
でもね!きっとね!生まれ変わってるからね!
前世でエライ目にあったから、きっと今世はすっごい幸せになってるんですよね!
千の風になってビュービュー言ってる場合じゃないですからね!!
親子そろって、川井郁子やすわない晶子(漢字がでない)みたいな美人で才能もあって、
岩崎弥太郎邸みたいなとこに住んで、ランボルギーニ乗って、毎日ロオジェやら久兵衛やらに行ってるんですよね!!
(これが私のお金持ちに対する想像力の限界)
ん?ということはやっぱり墓を拝まくてもいいのか?
拝んでやれよ。
南無三!!