2008年11月23日
神社に行く。
神社に行きました。
小春日和の気持ちの良い午後です。
おそらく地元の人しか知らないような場所にある神社で、清穏な空気に心が洗われます。
「こけこけこけこー」と言いながら、
足元の苔を見つつ参道を歩いて、ふと見上げると
楓が強風に舞って、空の半分が赤!
青い空が流水紋のようで、まさに錦繍。
くすんだ蝋色のお社の瓦とそこに落ちた紅葉に、凄艶でありながら寂寥感を感じさせる美がありました。
涙が出ましたよ。ワタクシ。
…言い訳させてもらおうか。
疲れてたの。
パソコンの画面みすぎで目がシバシバしてたの。
美しいものに飢えてたの。
人としゃべってなくて、「誰かに受け入れられる感」に飢えてたの(う。これはいけんな)
あの一瞬の美を見せてくれたその時間、場所、況や神のような存在に受け入れられたような気がしたの。
美しさというものを求めたとき、最終的に行き着く先はやはり「自然」のような気がします。
何かを蒐集し出すとします。
目が肥えてくるとどんどん良いものだけが欲しくなってくる。
「これが模倣したのは、あの品だ。となるとあの品が欲しい」
というのを10回ぐらい繰り返すと国宝に、
もう10回繰り返すと自然に行き着きます。
「この世にオリジナルの芸術品などない」という論がありますが、
すべての美は自然の模倣であり、自然から美を見出す感性から生まれるのだと思います。
おそらく年をとり生活に追われ、日々の激務をこなすだけの毎日を過ごせば、
美を見出す感性というのは、磨耗していくことでしょう。
実際10年前の自分より、感じ取る力は鈍くなっているような気がします。
ですがそれでいいのです。
年をとっても思春期のような心を持っていては、とてもじゃないけど生き辛い。
ああそうだね、過敏だよね、そういうときにはね、と
後進に助言が出来るのも、そのときが過ぎ去っているからできること。
やはり、人間というのはうまいこと出来ている。
いつか枯れてしまうその日まで、
色々を見て、何かを感じて涙したいと思います。
小春日和の気持ちの良い午後です。
おそらく地元の人しか知らないような場所にある神社で、清穏な空気に心が洗われます。
「こけこけこけこー」と言いながら、
足元の苔を見つつ参道を歩いて、ふと見上げると
楓が強風に舞って、空の半分が赤!
青い空が流水紋のようで、まさに錦繍。
くすんだ蝋色のお社の瓦とそこに落ちた紅葉に、凄艶でありながら寂寥感を感じさせる美がありました。
涙が出ましたよ。ワタクシ。
…言い訳させてもらおうか。
疲れてたの。
パソコンの画面みすぎで目がシバシバしてたの。
美しいものに飢えてたの。
人としゃべってなくて、「誰かに受け入れられる感」に飢えてたの(う。これはいけんな)
あの一瞬の美を見せてくれたその時間、場所、況や神のような存在に受け入れられたような気がしたの。
美しさというものを求めたとき、最終的に行き着く先はやはり「自然」のような気がします。
何かを蒐集し出すとします。
目が肥えてくるとどんどん良いものだけが欲しくなってくる。
「これが模倣したのは、あの品だ。となるとあの品が欲しい」
というのを10回ぐらい繰り返すと国宝に、
もう10回繰り返すと自然に行き着きます。
「この世にオリジナルの芸術品などない」という論がありますが、
すべての美は自然の模倣であり、自然から美を見出す感性から生まれるのだと思います。
おそらく年をとり生活に追われ、日々の激務をこなすだけの毎日を過ごせば、
美を見出す感性というのは、磨耗していくことでしょう。
実際10年前の自分より、感じ取る力は鈍くなっているような気がします。
ですがそれでいいのです。
年をとっても思春期のような心を持っていては、とてもじゃないけど生き辛い。
ああそうだね、過敏だよね、そういうときにはね、と
後進に助言が出来るのも、そのときが過ぎ去っているからできること。
やはり、人間というのはうまいこと出来ている。
いつか枯れてしまうその日まで、
色々を見て、何かを感じて涙したいと思います。
Posted by あさ at 01:14│Comments(0)
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